Monthly INTERVIEW トップランナーに迫る

三保谷友彦 考え抜くガラス、その101年目。

東京・六本木通り。六本木と西麻布の間に、ごくふつうの「ガラス屋さん」がある。店名は「三保谷硝子店」。養生された板ガラスや製作途中のガラス材がぎっしりと並び、何をしているところなのか、一見しただけではわからない。実は、1970年代から現在まで、ガラスという材料で、日本のモダンデザインを担い続けたのが、この三保谷硝子店と3代目三保谷友彦氏である。ものづくりの根幹がゆらぐ日本で、彼の言葉は改めて、ものづくりの心を振り返らせてくれる。
Profile

三保谷友彦(みほや ともひこ)

1945年東京生まれ。東京・六本木の三保谷硝子店(創業明治42年)の3代目で、倉俣史朗氏との深い交流で知られる。建築ガラスの分野の技術と施工力では日本のトップクラス。特に建築家やデザイナーなど、クリエイターの表現したいものを実現する力に長けている。2009年秋には創業以来の仕事の集大成となる「三保谷硝子店 101年目の試作展」が東京・六本木のアクシスギャラリーで開かれた。



ガラスがデザインの力になれることがわかった

「三保谷硝子店 101年目の試作展」 会場風景

−まず初めに伺いますが、三保谷硝子店はどんな仕事をしているのですか。

三保谷

もとはランプの「ほや」などを扱っていた硝子屋です。創業は古くて、1909年。僕はその3代目。窓ガラスから始めて、60年代頃から、いわゆる「建築ガラス」に移った。デパートやホテル、レストラン、ブティックなど、空間に使うガラス全般を扱う仕事で、建材や家具、ドア、什器などをデザイナーの求めに応じて、ガラスで製作、施工します。そんな仕事をしていると、たくさんのデザイナーに会うんですよ。

−そのうちの1人が倉俣史朗さんだったわけですね。

三保谷

そう。最初の仕事が新宿の高野。ガラスで大きな四角いガラスの空間をつくった。扉も什器もすべてガラス。それまでガラスと言えば、窓ガラスと思われていた時代に、ガラスの空間は驚きだった。それからずいぶんガラスの空間の施工を請け負いました。よく知られているのは「硝子の椅子」でしょ。それまで板ガラスの小口は透明に接着できなかった。それが紫外線を当てれば透明で硬くなる接着剤ができて、それで美しく板ガラスを組むことができるようになった。その技術を見て、倉俣さんはたった30分で「硝子の椅子」のデザインを描き上げた。

−板ガラスで組まれ、接着面がラインのように美しく透ける名作ですね。

三保谷

倉俣さんのおかげで、ガラスがデザインの力になれることがわかった。そして彼から広がる人の縁もあり、うちはずっとデザイン業界で飯を食ってきた。玄人好みの黒子っていうんでしょうか。クリエイティブのガラス部門担当者という感じでやってきました。だから101年目の今、デザイン業界に何かを返したかった。そしてこの展覧会を企画した。僕から見れば、いまのデザイン業界ってなんか元気がない。元気を取り戻したかった。

−ガラスを通して、多くのデザイナーのブレーンとなり続けたのですね。


4年ほど前から温めていたという展覧会の企画は、「三保谷硝子店 101年目の試作展」として2009年10月27日から約10日間、倉俣氏と関係が深いAXISのギャラリーの企画展として開催された。初日には、お披露目パーティを開催。現存する数少ない倉俣作品である吹き抜け部分のガラス階段の周りで樽酒を開け、ビルの外まで会を祝う人であふれた。参加デザイナーは、アシハラヒロコ、五十嵐久枝、海藤春樹、川上元美、杉本貴志、杉本博司、高松伸、トラフ建築設計事務所、橋本夕紀夫、廣村正彰、藤塚光政、堀木エリ子、宮島達男、八木 保、山田尚弘、吉岡徳仁。