About Isamu Noguchi ~ His Life
02-1.イサム・ノグチの人生 自分を認めなかった父との確執、数多くの恋人たち、帰属する国のない孤独感…。84歳の彼の人生は、けっして平坦ではなかった。
 
私生児としての運命(1904〜1917・0歳〜12歳)
 イサム・ノグチは、生まれたときからすでに苦難を背負っていた。1904年11月17日、アメリカのロサンゼルスで、レオニー・ギルモアの私生児として生まれたとき、アメリカで詩人として名を馳せた父・野口米次郎は、すでに日本に帰国していた。イサムが2歳で母と来日するまで顔を見ることもなかった。親子3人での暮らしも長くは続かず、結局は母子家庭となり、必死に働く母の姿をみて育つ。しかし母が建てた茅ヶ崎の家での生活は、イサムの芸術家としての土壌をつくった。「子供時代を、自然の変化に敏感な日本で過ごしたのは幸運だった。日本ではいつも自然が身近だった」と話す。その一方で、ハーフへの差別にも苦しみ、孤独な少年時代であった。
アメリカにて。波乱の日々と天才少年の名(1918〜1926・13歳〜21歳)
 孤独感を強めていくイサムに、母はアメリカの全寮制学校への進学を薦める。13才で単身渡米し、母の姓イサム・ギルモアと名乗り入学したが、経営上の理由から学校は1ヶ月で閉鎖。身寄りのない土地に突然一人ぼっちで放り出されてしまう。迎えにこれない母に対してさえ不信感を抱き、心の傷を深める。
 しかし、1ヶ月間の学校生活でイサムは木彫りの天才少年と呼ばれていた。そんなイサムを援助してくれたエドワード.A.ラムリー氏のおかげで無事高校を卒業。コロンビア大学で医者を目指すが、母の薦めで美術学校にも通うこととなる。そこで「ミケランジェロの再来」と賞され、入学3ヶ月目には個展を開いたイサムは、彫刻家として生きることを決意。このときから「イサム・ノグチ」を名乗っていく。憎しみの反面、東洋と西洋の融合を追及した父への畏敬の念が含まれていた。
芸術の都パリへ。師との出会い(1927〜1940・22歳〜35歳)
 その後、イサムはグッゲンハイム奨学金を得てパリへ留学する。巨匠コンスタンティン・ブランクーシの助手をしながら抽象彫刻を学んだ。しかし若くハンサムであったイサムはつねに恋に浮かれていた。パリから帰国したイサムの抽象彫刻は、まったくといっていいほど評価を得られない。
 一方、生活のため請け負った具象である頭部彫刻は絶賛され、それらを売った金で東洋への旅に出る。終着点は日本であった。ノグチ姓を名乗っての来日を許さなかった父と十三年ぶりに再会を果たす。憎しみは幾らかおさまるが、やはり理解し合えない。イサムは京都を訪れて日本の美をあらたに吸収し帰国する。日本にいればアメリカ人、アメリカにいれば日本人と見られるイサム。どこにも帰属しない孤独は増すばかりであった。
 この時期、イサムは「未来の彫刻は地球そのものに刻み込まれる」と思いつく。公共空間・環境芸術などという言葉はまだ聞かれない時代に、イサムのプランは受け入れらず、模索の日々が続く。
戦争と収容所生活。そしてふたたび日本へ(1941〜1950・36歳〜45歳)
 真珠湾攻撃を機に日米が戦争に入り、日系人や二世という存在に目が向けられるようになったとき、イサムはそこに帰属の場を求めようとした。自らアリゾナの日系人強制収容所に入り、同志として理想のコミュニティづくりに関わろうとする。しかしそこにもイサムの居場所はなかった。志半ばで退去し、ニューヨークで彫刻制作に専念する。
 その後、インド女性ナヤンタラとの恋に破れたイサムは、ヨーロッパからエジプトを経てインドへ。さらにバリ島をへて再び日本へ。このとき、丹下健三などの多くの日本の芸術家たちと出会い、親交を深める。日本の美を追求する仲間・師として自然に受け入れられたイサムは、のちにこう語る「ぼくが一番好きな日本は、戦後のあの混乱期の日本だ」。
プロダクト・デザインと庭園芸術(1951〜1970・46歳〜65歳)
 戦後の日本で、禅の庭や伝統技術に触れたイサムは、作品によりいっそう東洋的な匂いを漂わせるようになる。ニューヨークで、日本の女優・山口淑子(李香蘭)と恋に落ち、1951年に結婚。鎌倉の北大路魯山人の敷地内にアトリエと住まいを構え、陶芸制作にも励んでいる。またこの頃に、光の彫刻「あかり」を生み出している。
 1958年に離婚後、イサムはニューヨークを拠点に意欲的に活動する。彫刻よりも大きなスケールの庭園制作、空間の彫刻に熱心になる。ユネスコ本部やニューヨークの銀行などの庭園も手がけた。また「彫刻はもっと身近で、役に立つものであるべき」と考えていたイサムは、かねてから思い描いていた公園や遊園地などのランドスケープデザイン、「大地を彫刻する」という夢をさらに募らせていく。
日本での住まいとアトリエを持って(1970〜1988・65歳〜84歳)
 晩年イサムはニューヨークと日本を行き来する生活を送る。日本では、庵治石の産地・香川県牟礼町に住まいを構え、和泉正敏をパートナーに、イサムは数々の彫刻を制作した。ここでの作品は「彫刻に自然を取り入れた」といわれ、傑作と呼ばれるものも多い。
 1986年には、第42回ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表に選ばれる。80歳になってようやく“アメリカ人の偉大な芸術家”として認められたイサム。同年日本で京都賞受賞。翌年アメリカ国民芸術勲章を受賞する。そんなイサムに札幌市から「モエレ沼公園」ランドスケープデザインの依頼が舞い込む。夢の公園のマスタープランが完成したのは1988年。プラン完成と84歳の誕生日を祝った直後の12月30日、イサム・ノグチはニューヨークで静かに逝去した。84歳であった。
 現在、モエレ沼公園は完成区域から徐々にオープンしている。すべてが完成するのは2005年の予定。もうすぐイサムの夢が形になる。
参考文献:「イサム・ノグチ−宿命の越境者<上・下>」ドウス昌代著 講談社、「評伝イサム・ノグチ」ドーレ・アシュトン著 白水社
Photo
取材に6年を費やしたという評伝。 参考文献:「イサム・ノグチ−宿命の越境者<上・下>」ドウス昌代著 講談社
Photo
生活のために制作した頭像は意と反し高い評価を得る。写真は科学者フラーの頭像。参考文献:「Isamu Noguchi Sculptural Design」Vitra Design Museum
Photo
偉大な師や友との出会いが作品に大きな影響を与えた。(左)恩師ブランクーシ(中央)E.パウンド(右)イサム・ノグチ 参考文献:「Isamu Noguchi Sculptural Design」Vitra Design Museum
Photo
ハリのユネスコ本部庭園。イサムは「大地を彫刻すること」を生涯追い求めた。参考文献:綿引幸造写真集「イサム・ノグチの世界」ぎょうせい
Photo
念願のランドスケープ、札幌のモエレ沼公園が遺作。参考文献:綿引幸造写真集「イサム・ノグチの世界」ぎょうせい

00.トップページ01.イサム・ノグチのプロダクト02.イサムノグチってどんな人?03.オリジナル壁紙04.プレゼント || 次のページへ