三浦雅士インタビュー 村上春樹と柴田元幸とアメリカの憂鬱
「冥府」に降り立つことの意味

19世紀から20世紀にかけて、大体において、小説で描かれる人生というのは、青春とイコールだったわけです。それがどうもうまく行かなくなっちゃった、ということを僕は『青春の終焉』(2001, 講談社)で書きましたが、この本はその先の文学に関する中間報告みたいなものでもあります。

何かが変わらざるを得ない時というのは、それまでかけていた色メガネが剥ぎ取られて、いろんなことがあらわに見えてきます。人間は嘘をつく生き物で、自分にも嘘をつくし、社会が社会に対しても嘘をつく。社会的な意味性というのは大体は幻想にすぎなくて、皆で決めた幻想を肯定することを「大人になる」といい、社会的な意味性を知ることを「現実を知る」といっている。
たとえばコーヒーカップにしても、ノリタケだとかいろんな意味が付与されているけれど、子どもの目から見れば、単に土から作られた物質でしかない。そして、ものが物質として生々しく存在する世界こそが現実であり、現実だと言われている世界のほうが幻想かもしれないんです。
ものが物質になりきることが死ぬということであるならば、あの世とはすでに自分が知っている世界を指すんじゃないか、この世からあの世へ降り立つ冥界下降譚は、実は僕らが毎日経験していることなんじゃないか、それこそが一番根源的な問題ではないか――というのが村上春樹であり、柴田元幸です。彼らにとって、幻想を発生させる場所の仕組みこそが、関心の的なんですね。

メランコリーは、受け入れたくない「現実」の世界へ入っていかなければならないときに発症する病気みたいなものです。「現実」に対して距離を取りたいから、今起こっていることはすでに終わってしまったことなのだと考えるわけ。そういう心の状態のほうが楽だから。ああ、こんなふうにして人生は過ぎていくんだな、と、目の前で起こっていることを、まるで遠い昔のことのように遠くから眺めているような感覚、記憶としての現在。そんなメランコリーを村上春樹は作品化することに成功し、同じ思いを持つ多くの人々の心を捉えたといえます。

膨張する「現実」と、もうひとつのアメリカ

現実だと思っていることがひょっとして幻想かもしれなくて、あらゆるものが無意味かもしれないことに気がつけば、まったく違う目で世界を見て、まったく違うように生きていくことが出来る。文学にはそれぐらいの力があるし、社会とか経済とか政治を解く非常に重要な鍵が、その中に潜んでいる。

僕は本の最後で、駆け足でアメリカという国家そのもののことを書きましたが、それはもう少しじっくり取り組んでいかなきゃならない問題だと思っています。いま、世界経済や軍事を牛耳っているアメリカでは、生産性の高い「大人たちの現実世界」のほうがどんどん強くなってきているけれど、ブッシュがやっていることなんてただのゲームだし、そこに集まっている一握りの連中だってゲームの駒になっているに過ぎない。でもその規模が大きくなっていくものだから、もうひとつの世界、「少年たちの生々しい現実」の世界もそれに合わせて大きくならざるを得なくなってきている。だから、オースター、ダイベックやミルハウザーのようなおとなしいものから、パワーズやエリクソンのような暴力的なものまで、強烈なメランコリーを漂わせた小説がもっともっと出てくるだろうし、その傾向はさらに強まっていくだろう。

それはアメリカだけじゃなくて世界文学も同じで、村上春樹と柴田元幸が立ち会っているのは、そんな世界文学の変容の瞬間なんじゃないか。そしてその変容というのは、僕らが興味を持って真剣に見つめていかなくちゃいけないことなんじゃないか、と思うんです。

(2003年7月15日)

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『スローターハウス5』(カート・ヴォネガット・ジュニア著)
村上春樹が自身にとって特別な作家、と告白しているヴォネガット。二人は「文体が似ているだけではない。文体が浮き彫りにする精神の姿勢がとても似ている」(三浦)。ちなみに、柴田元幸の卒業論文もヴォネガット。
『青春の終焉』(三浦雅士)
「青春」をキーワードに三島、漱石、小林秀雄、大宰から村上春樹までを読み解く。本インタビューのあとにぜひ一読を。
『メランコリーの水脈』(三浦雅士)
三島由紀夫、大岡昇平、大江健三郎、安部公房、筒井康隆らに共通するモチーフ、それは "メランコリー"だった…現代という時代をえぐる文芸評論。
『熊を放つ』(ジョン・アーヴィング 村上春樹訳)
柴田元幸がはじめて、村上春樹の翻訳のチェックをすることになったアーヴィングの処女長編。
『孤独の発明』(ポール・オースター 柴田元幸訳)
オースターについて、三浦雅士はそのメランコリーにおいて村上春樹に似ているとし、柴田元幸も「非常に内面的というか、要するに孤独な男しか出てこない。村上春樹にもそういうところがある」と語っている。
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