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――10月に出た新著『責任と正義――リベラリズムの居場所』は、値段的には学術書価格ですよね。でも読んでみると、難しい本ではありますけど、ふつうの学術書とは違って、ガチガチな印象は受けませんでした。膨大な文献が参照されてるし、他の思想家の話も随所に登場する。でも不思議と、ぐいぐい読まされるんです。時折はさまれる、やんちゃなツッコミも楽しめました。
北田 ここ5年間ぐらいボケーっとと考えていたことを独白調に書いたものなので、紀要論文みたいなものとは違う印象を受けるでしょうね。学問的な精密さや文献の量よりも、とりあえず考えられることを自分のなかで考えていこう、いつ出版するとか決めずにやってみよう、ということで書き始めたものですし。
――「あとがきにかえて」によれば、「なぜ人を殺してはならないのか」という問いを社会学的な思考は安易に退けてしまう、そのことに対する違和感がこの本の執筆するひとつのきっかけになったと。
北田 ええ。社会学という学問は、世の中のどんなことでも社会の関係の所産であるという思考をしますよね。すると、倫理的にどういう立場をとるかというと、「関係性の所産であるにもかかわらず、あたかも本質のよう存在して見えるもの」の解体を目指すべし、というようになります。たとえば、「セックス」とか「ジェンダー」「国民国家」といった概念がそうです。つまり、あらゆる事象を社会的な構築の所産としてみていく社会学のスタイルは、すべてのものは関係性のなかにあるんだ、関係性を離れて議論を展開するのは暴力なんだ、という倫理(物象化論)と相性がいいわけです。
そのときに、社会学的な――というより関係論的な――思考は「なぜ人を殺してはならないのか」という質問にどう答えるか。おそらく、人は人との関係性のなかで生きているんだから、そんな問いは無意味な問いだ、とわりとつまらない倫理に落ちちゃうんですね。
――なるほど。人間はもちつもたれつなんだから、そんな問いは無意味だと。
北田 そうです。だから、あの問い自体に社会学者が答えようとした形跡はほとんどない。答えを出すべく真剣に議論していたのは、倫理学者や哲学者、評論家の人たちでした。結局、あの問いに対する社会学の考え方は、ここ数年間で社会構築主義といわれているものと同じ発想だと思うんですね。たとえば、「セックス(生物学的な性)」という概念は、非歴史的な本質カテゴリーではなくて、関係性や歴史的な構築物なんだと考える。それは正しいわけですよ。正しいんだけど、それをすべての倫理的な問題に対してあてはめていけるかというと、そうはならないんじゃないかと。
――すべての人が、「先に関係ありき」を受け入れるわけじゃない?
北田 ええ。「なぜ人を殺してはならないのか」という問いは、社会学が前提とする思考(関係論)の臨界点に存在する問いだと思うんです。だからこそ、社会学者は真剣に考えなければいけない。タルコット・パーソンズという社会学の巨人はまさしくこの野蛮な問いからスタートしていたわけですが、次第に「関係論」が自明化されてしまったように思える。社会学の思考は関係性の論理にしか行きつかないのだろうか、いやそうではないんじゃないかということを自分なりに考えてみたいというのが出発点だったと思います。
――当初の問題意識から始まって、「リベラリズム」というでっかいテーマにつながったんですね。
北田 その点も社会学業界の話になるんですけど、社会学のなかではリベラリズム(自由主義)は非常に評判がよろしくない。「ラディカル」な社会学者は次のように考えます。自由主義は、「自由」「平等」「人権」という概念を、非歴史的な本質的価値と見なしてしまう。しかし、個々人による自由な決定という名のもとに、いかに抑圧的な政治・社会体制が築き上げられてきたか、あるいは、西洋ローカルな「人権」概念がどれほど暴力的な帝国主義に加担してきたか。そういうリベラリズムの政治性を考察しなくてはならない、と。
――なるほど。
北田 そうすると、簡単にリベラリズムにコミットするなんていうのは、社会学としては禁じ手になっちゃうんですね。
――じゃあ、社会学は何にコミットするんですか?
北田 特定の倫理にコミットするというよりは、各々の倫理の限界を示す。答えはひとつではないという形の啓蒙の仕方を取ります。それでいいと思いますけど、じゃあ僕たちはリベラリズム的な概念を手放すことができるんだろうか。「自由」や「自己決定」という概念の政治的な帰結や問題性は分析していくべきだけど、にもかかわらず「自由」や「自己決定」は必要だ、とぼくたちははどこかで考えている。だったら、社会学とリベラリズムのつきあい方というものを、リベラリズムの歴史的な経緯だけを追うのではないやり方で考えてみる必要がある。そこが本書のもうひとつのラインとしてありました。 |
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