このマンガ好きだったらこの小説読んでみなよー。この小説が面白いんなら、このマンガ、絶対おすすめ。そんなふうにおもしろい本の世界を倍々でひろげていきます。第32回は、我、思うゆえにおおまちがい! なマンガと小説を!
第32回 我、思うゆえにおおまちがい対決! 『最強伝説黒沢』vs『告白』
「我思うゆえに我あり」(Cogito,ergo sum)とは、近世哲学の開始者ルネ・デカルトの言説。私が考えている間は、私を「存在しないもの」とみなすことはできない、ということであります。
「そんなの、当たり前じゃん」と言いたくなりますが、そもそも「自我」なる概念は日本では生まれませんでした。明治以降、我が国に輸入されたものなのです。
儒教思想の下、「無私」や「滅私奉公」の精神が幅を利かせていた封建社会と、その因習から生じるさまざまな抑圧への反抗を通じ、西洋から輸入された「自我」という新しい考え方はそれなりのリアリティを持って機能しました。しかし、当然のことながら、旧制度への反発だけで異質な概念を受け入れろといっても無理があるわけで、英文学研究でイギリスに留学した夏目漱石が日本とは異なる個人のあり方を目の当たりにして深刻なノイローゼに陥ったのは有名なエピソードであります。
それほどまでに「自我」の問題はむずかしい。じつは借り物である「自我」をどう扱うかは、わたしたちにとってひどくむずかしく、切実な問題であるのです。
今回は、空回りする「自我」がとんでもない事態を巻き起こすマンガと小説をご紹介しましょう。
安アパートの一室で仲間たちとワールドカップの日本代表を応援しながら、『最強伝説黒沢』の黒沢はふと気づいてしまいます。
「これは他人の祭りだ、ここに感動などないっ……」
それはあまりに唐突な、そして劇的な「自我」の目覚めでした。
この世に生を受けて44年、高校を卒業して26年、さしたる疑問も持たないまま穴平建設に黙々と働き続けてきた黒沢には自分というものがなかったのです。そして、自分に気づいてしまった瞬間、いままで見えなかった真実にも気づいてしまうのです。
「自分は、孤独だ」
家庭を持たない自分は親でも父でもない、つまり親父にもなれない。自分は何も考えずただ年齢を重ねてきただけの齢男(としお)なんだ……。居酒屋チェーン白木屋ならぬ白本屋のテーブルに突っ伏して、ちょっと涙ぐむのです。会社の若い連中とは話も合わず、なまじ気を使ってくれるだけに寂しさもひとしお。交通整理人形の太郎(黒沢命名)に不安と焦燥で引き裂かれそうな胸の内を吐露し、ひとり道端で号泣するのです。気づかなければ、むしろ幸せだったものを。「自我」とは、なんて罪作りなんでしょうか。
「自我」に目覚め、生まれ変わった黒沢はこう考えます。
「人望が欲しいっ……!」
自分は孤独だ。孤独だから、せめて仕事仲間くらいには自分の善さを知ってもらいたい。黒沢はそう願います。
しかし、生まれ変わったと考えているのは当の黒沢だけ。他者の認識では今までとまるで変わらない、しいていうならば、若干挙動不審になった黒沢がいるだけです。むしろマイナスです。
そもそも現時点で人望がないのなら、それだけの人間なのです。黒沢は悪人ではありませんが、これといって善人でもありません。こつこつと積み上げてきたものもなければ、仕事上のスキルすらないのです。知ってもらうべき善さが彼のどこに存在するのでしょうか? セルフイメージとパーソナルイメージの乖離がここにあります。
他者に認められない焦燥感だけが膨れ上がっていくなか、黒沢が(勝手に)ライバルと目したのが現場監督の赤松。黒沢より一回り以上若く、美人の奥さんと子供がふたりという家庭持ちで、人当りよく人望も厚く、仕事もできて、という完璧超人です。一分の勝ち目もありませんが、黒沢はなんの根拠もなく「この現場では俺が勝つ」と己に言い聞かせるのでした。
そして、展開される黒沢の人望勝ち取りプロジェクト。その作戦内容は「現場の弁当にアジフライ追加」。一尾90円のアジフライで尊敬を勝ち取れるものならば誰しもやっているという事実になぜ思い当たらないのか。黒沢の思考の浅はかさ、人間の小ささに涙を禁じえません。恐るべきことにこのプロジェクトはターゲットと内容を変えながら(レベルとしては最低位安定)、黒沢自身にも予想ができない、なにがなんだかわからない地平に向かって進んでいくのでした。転がり始めた最強伝説はもはや止めることができません。
「自我」の暴走とミクロな人間性がおりなす絶妙のハーモニー。しかし、しょうもなさすぎる男・黒沢は嘲笑や軽蔑の対象ではありません。黒沢は、誤ったセルフイメージや他者の視線に操られ、まちがい続けるわれわれ全員の分身ではないでしょうか。
町田康『告白』に登場する熊太郎もまた、「自我」=「自意識」が過剰すぎたがゆえにまちがい続けた男です。
『告白』は河内音頭のスタンダードナンバー「河内十人斬り」をモチーフにしています。そして「河内十人斬り」は、大阪は河内国で起こった大量殺人事件に材をとったナンバーです。事件の詳細はこのようなもの。
明治二十六年五月二十五日深夜、雨、河内国赤阪村字水分で百姓の長男として生まれ育った城戸熊太郎は、博打仲間の谷弥五郎とともに同地の松永傳次郎宅などに乗り込み、傳次郎一家・親族らを次々へと斬殺、射殺し、その数は十人に及んだ。
被害者の中には自分の妻ばかりか乳幼児も含まれていた。
犯行後、熊太郎は金剛山に潜伏、自害した。
犯行の動機は、傳次郎の長男には借金を踏み倒され、次男には妻を盗られた、その恨みを晴らすため、といわれている……。
熊太郎、三十六歳のときであった。
たしかにセンセーショナルな事件ではありますが、疑問も残ります。なぜこのような陰惨な事件が河内音頭の定番として、「男持つなら熊太郎・弥五郎、十人殺して名を残す……」などと歌われているのでしょうか。
それは熊太郎の人間性にあります。熊太郎は怠け者で極道で、どうしようもないバクチ好きではありましたが、決して悪人ではありませんでした。ダメ人間ではありますが、われわれがたやすく感情移入できるような存在です。
では、なぜ10人もの人間を惨殺するような、大それたことをしてしまったのか。そこに「自我」の生みだした不幸があります。
明治の初期から中期、開国にともなって日本に「自我」なる概念がやってきた、ちょうどその時期に熊太郎は生きました。
熊太郎は小さいときから頭がよかった。思弁的な子供でした。つまり幼いときから「自我」に目覚めていたということであります。
しかし、百姓の倅にはそんなものは必要ありませんでした。思考を言葉にしてだだ漏れさせるような農民たちに熊太郎は自分の考えていることをうまく説明できず、いきおい変人として孤立していくことになります。心情をうまく伝えられないがゆえに、冗談に逃げ、不真面目な人間とみなされてしまうのです。自然、心は虚無、退廃に向かいます。暗い心を慰めようと、バクチ場に足を運びます。さしたる博才もなく、借金をこしらえます。自暴自棄になります。いっぱしの農民として知識と経験を蓄えていく同年代の連中からも完全に落ちこぼれ、村に居場所がなくなっていきます。前回取り上げたダメ・スパイラルの完成です。
あかんではないか。
本文には時折、このようなツッコミが入って面食らいますが、これは作者である町田康が熊太郎に感情移入をしているからに他なりません。実際、町田康と熊太郎はかなり重なり合うところがあります。現代作家ガイド:町田康を参照いただければわかるように、若き時より町田町蔵名義でバンド活動を始め、女子供に受けるわけでもないパンク・ミュージックを愚直に続けてきた町田康は、「叫ぶことができた熊太郎」なのではないでしょうか。
同じく、早いうちに社会からドロップアウトしてしまった熊太郎と町田康(町蔵)。しかし、叫ぶことすらできなかった熊太郎の怒りが最後の爆発につながったのです。結果は10人殺しですが、その怒りはきわめて正当なものだったのです。
この『告白』は676ページにも及ぶ大作ですが、頑張って読むだけの価値はある傑作です。『最強伝説黒沢』の黒沢と同様、熊太郎の懊悩はわれわれ自身の問題でもあるのでした。
あかんではないか。わかってるけど、ダメなんだよ。と書いて、今回もオシマイ。
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