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非モテの文化誌
words by demi/illustration by ささこ バックナンバー
非モテ人間は現代の被差別階級なのか? 異性を発情させるのがそんなに偉いのか? 文学を手がかりに、いっそ、非モテライフをエンジョイする方法を探っていこう! 今回のテキストは、一人称が「僕」な女子高生がたくさん登場する海燕新人文学賞受賞作です。

第32回 ボク女のヒ・ミ・ツ――松村栄子『僕はかぐや姫』の巻

『僕はかぐや姫』(松村栄子/福武書店)
高校1年生の少女による母親毒殺未遂事件が世間をにぎわせたのはついこの間のこと。その犯罪の異常性もさることながら、彼女がブログでの一人称に「僕」を用いていたことが一部で話題になりました。女性的な一人称になじめず「僕」を名乗る少女、通称「ボク女」。女にとっての「モテ」が女性性を戦略的に演じることであるならば、ハナから勝負を捨てるとしか思えぬこの一人称に意地悪な関心を寄せる男性は意外に多いようです。もっとも思春期の少女というものは、一度はこうした葛藤を経験するのではないでしょうか(突飛な一人称を使うかどうかは別として)。

1990年に海燕新人文学賞を受賞した松村栄子『僕はかぐや姫』は、「ボク女」が大量に生息している80年代前半の地方高偏差値女子高の文芸部が舞台です。掃除と礼儀作法に力をいれる良妻賢母教育とは裏腹に、女子高生たちは自意識をたくましく育てていきます。「女子校では誰も女性である必要がない。皆、ただ一種類の人間でさえありさえすればよい」。女を演じる必要の無い彼女たちの会話はまるで男同士のようです。

「それは認める。可愛いことが武器になるなんて思ってもみなかった」
「今だって思ってるようには見えないけど」
「教養が邪魔をする」
「ほう」
「だからね、僕はこうも思う。男性好みの女性を作りたいなら、断じて教育なんかすべきじゃない。いらぬ知恵を詰め込んでおきながら、三歩さがれったってそんなの馬鹿げてる」

「裕生も尚子も自分のことを<僕>と呼んでいた。原田もそうだった。それが自然だった」。当時の名門女子高では、「ボク女」では大して珍しい存在でもなかったのでしょうか。バラードや谷川俊太郎を愛読し、ときどき「サ店」で煙草を吸って呼び出される程度にはワルな彼女たちは、文芸部の部室にたむろして文学論を交わす日常を送っています。

  ひとりでいたがる者たちが、孤独を愛するというそのことによってつながりを得ようととするのだから、その矛盾した関係を保持するのはきわめて複雑微妙な作業であり、複雑微妙すぎるために放棄され、かえっておおらかなあるいはがさつな振舞いが励行された。
  つまり陰鬱な雰囲気はなかった。先輩から後輩へ用済みになった定期考査のプリントが譲られ、先生たちの噂話が面白おかしくされ、ロック・グループの情報が取り交わされ、漫画の文学的意味が討論され、最近読んだ書物が批評された。心の内だけが語られなかった。

萩原朔太郎に心酔して過激な白樺派批判を展開する女子高生もいれば、ポエマーな新入生を「そういうのはさあ、<詩とメルヘン>にでも持っていけばあ?」と部全体で排撃したりもする、痛し痒しなスノッブぶり。

  ここにいる神田あけみが最初にやってきたときも、ヘッセの<車輪の下>に感動しましたと言うから、なら<デーミアン>はどうか<ナルチスとゴルトムント>は、トーマス・マンはと詰問調で裕生は虐めた。(中略)
  渡辺友子の場合はお定まりのサリンジャーだった。
「<ライ麦畑>?」
「はい」
「ふーん、ああいう腑抜けたのが好き?」
  彼女はムッとして裕生を見つめ返した。
「僕もサリンジャーは嫌いじゃないけどね、<ライ麦畑>だけはどこがいいのかさっぱりわからない。<フラニー>や<シーモア>のシリーズは好きだけど」
  それは、後日<ライ麦論争>と呼ばれるものにまで発展したのだが、このときは裕生のほうが劣勢だった。

サリンジャーにヘッセといえば、まさに旧制高校的教養主義における二大必読図書(高田里惠子『文学部をめぐる病い 教養主義・ナチス・旧制高校』参照)。『愛して 姫子さん』で柴門ふみがいみじくも喝破したように、明るいバカでなければ女の子の居場所がなかった当時、彼女たちがロールモデルとして見出したのは、小説や少女漫画に登場するエリート男子学生の世界だったのではないでしょうか。そう考えれば彼女たちがこぞって「僕」を用いるのも納得がいきます。勉強はできるけど優等生ではない、ちょいワルな文化エリートとしてふるまうには、「女の子」という型はいかにも邪魔だったのでしょう。

そんなボク女ワールドから最初に抜け出したのは尚子でした。かつては、

「<二十億光年の孤独>を読んだ?」
「……うん。泣いた、僕」
「キルケゴールが……もちろん、読んだって半分もわからないんだけど……本を開いただけで苦しくなって……」
「<死に至る病><わたしにとっての真理>……僕らをひとことで殺す文句だ」

などと裕生と感傷をわかちあっていた尚子はあるときから部会に顔を出さなくなり、<あたし>という一人称を身に付け、「からからと空虚に笑う」つまり正しい女の子になっていたのでした。

  かけらを損なう恐れのあるものはたくさんあった。女になること、おとなになること、さまざまな知恵をつけること、何かに馴染むこと。<僕>が防波堤だった。
  けれど、ふたつながら並べてみたそれが、硝子どころか蛙の卵のようにふやふやして醜いと気づいてから、尚子は<僕>を捨て、安っぽい感傷を捨てて魂をビロードの袋に詰め替えた。その色は黒く、手触りは淫靡だ。もう中身は見えない。

早く言えば裕生を見て自分の痛さに気づいたってことでしょうか。裕生もまた、<僕>が居心地が悪いと感じるようになります。

  あれから裕生は<僕>を気取る自分の心情について考え始めた。もっと純粋でもっと硬くもっと毅然とした固有の一人称がほしいと思った。魂を、透けて見えても恥じない水晶のようにしたいと願った。

自分の痛さを薄々感づきながらも、女性の記号で武装して内面を隠蔽する「女」にはやっぱりなりたくないと考える寂しい裕生は、空を見上げて宇宙にいるはずの「自分が本来関わるべき世界へと連れ去ってくれる者」に思念を送ります。「迎えに来るなら今よ」「そこにいるのはわかってる。じっと僕を見ているのはわかってる」。電波をビリビリ感じるこのフレーズ。しかしタイトルに使われている「かぐや姫」だって女子の関係妄想ストーリーといえなくもなく、思春期の女の子が発する電波としてはごくごくありきたりなのかもしれません。未知との遭遇が失敗に終わってしまった裕生は、机にボードレールの一節を刻みます。「君は誰を愛するのか」。

これに答えを返してきたのが白鹿のようにほっそりとした美少女・狭山穏香でした。運動神経がよく、明朗快活でボーイッシュな彼女に裕生は萌え萌え。しかし健全な穏香は裕生にずばり問い掛けます。「どうして千田さんって自分のこと<僕>って言うの?」。男の子になりたいわけじゃなく、とりあえず女の子になることを留保したかったのだと答える裕生。「女の子ってことはこっちにおいておくと、どうして<僕>になるの?」「<わたし>は?」と意外にも食い下がる穏香。裕生は「僕らの年齢で男の子が<わたし>なんて言う?」と弱々しく反論するのですが……。

「生まれたときから女性で、女性として認められるってことが人間として認められるってことじゃないのかな」と主張する穏香に裕生は幻滅します。「ただ美しい塑像であってくれればいいと思っている彼女が頭の中で自らの女性性について思い巡らせている」こと、つまり美少女の内面の存在に萎えてしまったのでした。眞鍋かをりの「人間力」発言に萎えるブロガーみたいなものでしょうか。喋らずにメガネをかけて微笑んでくれるだけなら萌えられたのに……。

そしてリアルに<僕>を使う生身の男の子も、そんなにいいものではないことを裕生はうすうす感づいています。彼女たちが男子校の文学部と合評会を行ったときのこと。

  自己紹介ということになって裕生たちが次々に「僕は」口調で話し始めると、彼らはあんぐり口を開けて、やがて憐れむように口を閉ざした。
  彼らの作品というのは、やたらご都合主義に美少女が目の前に現れて一緒にベッド・インするとか、犬の交尾がどうしたとか、ゴキブリの死骸にはエロティシズムを感じるとか、とにかく即物的で品がない。その圧倒的生命力の前には女子高生の繊細な感性や観念的美意識などは紙切れのごとく吹き飛ばされた。
  彼らの小説の中に出てくる少女は決して裕生たちのように自意識過剰の理屈屋ではなかったし、裕生たちの作品に出てくる少年たちは決して彼らのように醜くはなかった。

文学青年たちが繊細な美少年でもなんでもないという現実。リアルな思春期の男の子なんてそんなもんですよね。

彼が女の子たちに<源氏>に登場する女性では誰に共感を覚えるかと尋ねると、裕生はさらにさらに不機嫌になった。意図は見え透いていた。つまりそれは心理テストのようなものだと裕生は察した。そのデータと容姿をもとに、後で雨夜の品定めとしゃれ込むつもりなのだろう。

品定めどころか「ボク女」論で宴もたけなわかと思います。それはともかく、「若紫」と答えた裕生に、毒舌家の原田はこんなことを言います。「裕生の白痴願望って、やっぱり若紫願望だよね。可愛い女願望。シンデレラ・コンプレックス。いらぬ知恵を身につけると三歩下がれないもんね」。裕生は言葉に詰りました。大量の本を読み、男の考え方を内面化してしまった彼女こそが「女とは可愛いバカでなければならぬ」「内面があってはならぬ」と信じ込み、そうはなれない自分を「女の子」であるとは認められなかったのでした。

合宿の日、彼女は<わたし>と小さくつぶやきます。

  裕生は手に入れたばかりの<わたし>を振り返る。男でもなければ女でもない、子供でもなければおとなでもない。そんな場所が今この刹那は許されているような気がした。この<わたし>は強い。

<僕>から一歩抜け出した彼女は、空虚にカラカラ笑う「女」でもない、それなりに賢く、鬱陶しい内面を抱えた変な女としての人生を自力で切り開くことになるのでしょう。自分の居場所は自分で作るしかないのです。しかしそれをやる価値は十分にあると言いたい。なぜならいらぬ知恵を身に付けた女の子はこれから先もどんどん増えていくのだから。

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(文・demi/Beltorchicca  絵・ささこ/おもパン

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