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愛と学問の旅立ち
words by サイトー商会 バックナンバー
若手の学者がおもしろい。東浩紀、北田暁大だけじゃない、経済でも哲学でも思想でも政治でも、元気な論客たちが爪を研いで出番を待っている! そんな彼らに突撃インタビューしていく連載です。増田聡の4週目、「ロッキンオン」的音楽批評を一刀両断です。

第17回 ロッキンオンに別れを告げて――増田聡インタビュー其の四

増田聡(ますだ・さとし)
増田聡
1971年生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。明治学院大学、国立音楽大学、慶應義塾大学他の非常勤講師。音楽学・文化社会学・メディア論専攻。著作権、DJ文化からパクリ論争、君が代まで縦横無尽に論じるポピュラー音楽研究の風雲児。現代思想の語り部、内田樹を見出したことでも知られる。著書に『その音楽の〈作者〉とは誰か』(みすず書房)、共著に『音楽未来形――デジタル時代の音楽文化のゆくえ』(洋泉社)、『ポピュラー音楽とアカデミズム』(監修:三井徹/音楽之友社)、『クラシック音楽の政治学』(青弓社)、『使える新書2――21世紀の論点編』(WAVE出版)など。
公式サイト:増田

『音楽未来形――デジタル時代の音楽文化のゆくえ』増田聡・谷口文和/洋泉社
――パクリの話とも少し重なるかもしれませんが、自分も含めてどうしても好きな音楽と嫌いな音楽ってあると思うんです。あるいは、面白い音楽とくだらない音楽とか。で、自分の好きな曲が好意的にレビューされたり批評されたりするのを読むとうれしく思うし、逆だったら「こいつわかってねぇ」とかブー垂れるわけですよ。
  でも増田さんの著書なり論文には、そういう曲のよし悪しの話って一切出てきませんよね。


増田 出ないですねえ。

――増田さんにも、音楽の好みはあるんですよね。

増田 そりゃ自分の音楽的な趣味はありますけど、それは僕個人の趣味でしかない。もちろんあらゆる音楽ファンと同様に、自分の趣味のほうがそこらの人の趣味よりマシだという自負はありますが(笑)。でもそんな自負は、音楽学者としての自負とはまったく関係ないですよね。

――音楽学とかポピュラー音楽研究というのは、批評には手を染めないものなんですか。

増田 音楽研究者の中には批評的な活動の方にむしろ軸足を置く人もいますけど、僕個人としてはあまり積極的にはやりたくない。理由はいろいろあるんですが、まず個人的な背景からいうと、僕が教育を受けた大阪大学の音楽学研究室は、民族音楽学の研究が非常に盛んなところだったんですね。で、そういうところで最初に学問的な手ほどきを受けたために、文化相対主義的な思考法を徹底的に叩き込まれました。世界中にはさまざまな音楽があるけど、それらの間に価値の高低はないという考え方です。
  その教えが、現在の僕の研究作法の根っこになっています。いやしくも学問たるもの、いい音楽だから研究すべきだとか、Jポップはつまらないから分析する価値はないとか、そういった美的価値に依存して行われるべきものではないだろう、と思う。音楽についての議論を、それが取り上げている対象の美的価値によって評価するような発想をどう打破するか、というのは僕の一つのテーマです。だから論文でも、美的な価値判断に基づいた主張は禁じ手にしています。そうではなく、学問の側からの知的な判断によって研究対象は選択されるべきだ、と考えています。音楽以外の分野ではあたりまえの話なのですが。

――学生時代の勉強がちゃんと生きているんですね。

増田 個人的な背景を抜きにしても、とりわけポピュラー音楽についての言説は、自分にとっての美的価値をどう喧伝するかという方向に傾きすぎなところがあるように感じます。いわゆる「ロッキンオン的な」言説形式、といいますか。音楽についての議論の存在意義が、「その対象の美的価値」に依存する、というのはあまり健全ではないと思う。たとえば、パレスチナのなんとか音楽が好きな人が、「これは帝国に抗する音楽であって云々」とか言う。それは違うだろうと。一部の政治性の強いカルスタ(カルチュラル・スタディーズ)系の研究者にしばしば見られますけど、音楽をめぐる言説では、自分の美的な価値判断が無媒介に主張の意義と接続されてしまいがちで、それが当然と思われてしまう。言説が対象にべったりで、自律していないんですね。音楽についての言説が、その音楽を称揚するためにしか用いられていない。それは息苦しい。
  そうそう、このあいだ『音楽未来形』(谷口文和との共著、洋泉社)という、音楽とテクノロジーの関係の変容をメディア論的に検討する本を書いたんですけど、この本の中ではクラブ・ミュージックやDJカルチャーについてかなり大きく取り上げています。すると周囲に誤解されるんですね。「増田さんはクラブ・ミュージックが好きなんですね」と。いや、僕は単にDJのやってる実践が、音楽とテクノロジーの関係を考える上で学術的に興味深い対象だと思って取り上げているわけで、自分ではめったにクラブなんか行かないし、ヒップホップやテクノも好きで研究してるわけではない、と説明してもなかなか分かってもらえない。美的に関心あるからDJを論じている、としか思われないんですね。

――なるほど、それはけっこうありがちかも。

増田 しまいには「その対象が好きじゃないと研究してはいけない」とかいった奇妙な倫理がまかり通る。でも、アルミニウムの研究をしている優秀な金属工学者が、「アルミニウムが好きで好きでたまらない」か、と問われれば、必ずしもそんなことはないでしょう(笑)。でもなぜか音楽研究については、研究対象への愛着が要求されてしまいがちで、それが僕には居心地悪いです。「好きなもの研究」はもうやめましょう、と思う。

――もっと中立的でよいということですか?

増田 「音」だけに特化する言説が多すぎると思うんです。民族音楽学では、音楽は「音」「概念」「行動」という三つの水準の相互作用によって構成されると考えるんですね。この三つの側面を同時に考慮に入れないと、音楽のダイナミズムやリアリティは理解できない。だから民族音楽学だと、音楽をめぐる概念や思考、またそれを支えている社会的な背景の重要性を、聞こえてくる音以上に強調するんですね。
  ところがよくある音楽批評は、聞こえてくる音をどういうふうに捉えるか、それは自分にとってよいか悪いか、といった問題系だけに拘泥しすぎているところがあるんですよね。それはあまり生産的じゃない。たとえば菊地成孔さんみたいなアクチュアルな音楽家が、音を具体的にどう使っているかを分析してくれるのは非常に勉強になるんだけど、その水準だけでは捉えられない部分も大きいわけです。いわゆる「現場」とは異なった場所で音楽を考えているアカデミックな研究者が有効な議論を提供できるとすれば、概念や思想、人々の生産行動や受容のあり方といった水準がどう音と結びついているかを、美的な価値判断を離れて提示することなのではないかと思います。

――たしかに音楽のレビューって「どう聞こえるか」はあっても、「どう聞かれているか」という部分が希薄ですね。

愛と学問の旅立ち
増田 批評というより感想なんですよね。好き嫌いありきで、好き嫌いのほうが重要だ、音楽は論じるものじゃなく感じるものなんだ、みたいな物言いがまかり通っているでしょう。
  映画とか美術だと、そこに社会思想だの時代のモードだのを読み込む人は多いのに、音楽ではそういったことがほとんど行われない。でも「歌は世につれ、世は歌につれ」じゃないけど、テクノロジーや経済や政治や思想といった要素と音楽が連動して動いていることはたしかで、音楽の場合、それを専門家があまりにも言語化してこなかったんです。徹底して音そのものについてのテクニカル的な話か、そうでなければ、いつ誰がどうしたという歴史的な話か、あるいは「自分の愛着」ばかりを語ってきた。悪い意味で、対象への愛情に依存したオタクの仕事になっちゃっているんですね。そのオタクの仕事でも、対象自体に価値があると社会から見なされているうちはいいんだけれども、クラシック音楽みたいに社会的なニーズが減少しちゃったら、一気に音楽学もニーズがなくなっちゃうわけでしょう。そうじゃなくて、一つの自律した人文学として音楽学をやっていく以上は、対象に依存しないような形で、それをどう理解するかという構えを取る必要があると思うんです。「そのための記述モデルを私は開発してきたわけです」みたいなことを将来胸をはって言えればいいんですが(笑)。

――研究は研究で切り分けて、趣味の部分でかまわないので、増田さんのディスクレビューをぜひ読んでみたいんですが。

増田 ブログでときどきCDの感想とか書いてますけど、つまんないですよ。僕の場合最終的には1行で要約できるから。「聴け!」か「聴くな!」(笑)。言語行為的にはこれしか言う必要がないわけですもん。
(次週へ続く)
(斎藤てつや/サイトー商会)

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