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愛と学問の旅立ち
words by サイトー商会 バックナンバー
若手の学者がおもしろい。東浩紀、北田暁大だけじゃない、経済でも哲学でも思想でも政治でも、元気な論客たちが爪を研いで出番を待っている! そんな彼らに突撃インタビューしていく連載です。増田聡の2週目、パクリ論争をバッサリ斬っていただきました。

第15回 パクりパクられて生きるのさ――増田聡インタビュー其の二

増田聡(ますだ・さとし)
増田聡
1971年生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。明治学院大学、国立音楽大学、慶應義塾大学他の非常勤講師。音楽学・文化社会学・メディア論専攻。著作権、DJ文化からパクリ論争、君が代まで縦横無尽に論じるポピュラー音楽研究の風雲児。現代思想の語り部、内田樹を見出したことでも知られる。著書に『その音楽の〈作者〉とは誰か』(みすず書房)、共著に『音楽未来形――デジタル時代の音楽文化のゆくえ』(洋泉社)、『ポピュラー音楽とアカデミズム』(監修:三井徹/音楽之友社)、『クラシック音楽の政治学』(青弓社)、『使える新書2――21世紀の論点編』(WAVE出版)など。
公式サイト:増田

『その音楽の〈作者〉とは誰か』みすず書房
――増田さんの本からの孫引きですけど、フーコーさんは「作者」という機能を、署名する人、所有する人、帰属、語る主体の位置というふうに4つに分けていますよね。
  署名する人は、たとえば「京極夏彦」とか「増田聡」という、作品に署名する人の名前だからわかりやすい。所有する人も、ややこしい話もありますが、著作権を持っている人。残る2つは、具体的にはどういうものですか?


増田 フーコーが言っているのは、「作品」と「作者」が結びつくやりかたに、4つの様態があるという議論なんですね。彼も文学テクストを念頭に置いて論じているんですが、「語る主体の位置」というのは、一人称とか三人称とかいった文法的な記号によって指定され構築される、そのテクストを読む読者に対して語りかけてくる「主体」のポジションのことです。
  たとえば学術的な論文ではよく「われわれ」という一人称複数の主語が使われますけど、その場合、語り手の位置としての「作者」は「われわれ」なんですよね。で、「われわれ」とは誰かというと、僕という具体的な個人でもないし、斎藤さんという具体的な個人でもない。その学術論文の議論を共に読みすすめていると想定される仮想の読者共同体が、「われわれ」という言葉によって主体のポジションに(文法的に)置かれることになる。ゆえに、そのテクストのなかで語る主体の位置を占める「作者」の契機は、「われわれ」という指示記号によって指し示されるもの、ということになるわけです。これは音楽においては、「その歌詞を誰が語っているのか」という問題とも関係します(※注)

――なるほど。作詞家がいても、歌詞の内容って歌い手が語っているように感じられることはけっこうありますね。そう考えると、たしかにややこしい話になりそう……。

増田 もう一つ、「帰属」というものは、いわゆるロマン主義的な創造的「作者」概念ともっとも結びついてくる作者性の契機ですね。これは、その作品が生み出されるにあたって、本質的な貢献をなした(と想定される)者ということで、必ずしも署名者や所有者、語りの位置という、他の作者性の契機とは一致しない。「この作品をオリジナルに作りあげたのはこの人だ」みたいな……。

――たとえばアーティスト名義とは異なる、「黒幕」探しとかに繋がるものなんですか?

増田 そうですね。その作品を帰属させる作者というのは、作品をめぐる批評的諸操作によって、事後的に定められていくものです。バンド名義で制作された音楽について、誰がもっとも創造的な貢献を行ったか、あるいは誰が一番エライか、みたいな議論をよくしますよね。そのような語りこそが批評的諸操作を構成しているわけで、そこで言われる「エライやつ」こそが「帰属される作者」ということになるわけですね。

――そういう話が、パクリ論争とつながっていくのはどうしてですか?

増田 この4つの作者の契機は、文学のような単層の作品だと比較的一致しやすいし、現代音楽を含むクラシック音楽でも、前回にお話しした作曲家至上主義みたいなところがあって、複数の作者性の契機を単一の「作者」へと収束させようとするメカニズムが働いてきたわけです。
  ところが、ポピュラー音楽においては、メディアの次元、産業の次元、著作権制度に代表される法的な次元それぞれにおいて、これらの作者性の4つの契機が現実的にはバラバラに拡散してしまう。そのため、「誰がほんとうにその作品を作ったのか」という問いが繰り返し喚起されることになるわけです。つまり、「帰属」の契機が他の作者性の諸契機から切り離されて一人歩きしてしまうために、その落ち着き先をめぐって議論が無限に続いてしまうわけです。
  パクリ論争というのは、「パクっている」人を擁護する人も非難する人も、「真のオリジナリティ」という理念を前提しているからこそ、発生する論争なんですよね。誰か一人の「作者」にその作品の起源を帰属させてすっきりさせたいんだな、という気がするんですよ。実際はさまざまな人たちの個々の創作的行為が集積されることによって一つの音楽が制作されているのに、その「バラバラさ」に我慢できない。そんなふうに感じます。

――でも、そうやってオリジナリティを、特定の誰かに「帰属させることが可能だ」と考えるのは幻想にすぎない?

増田 創作における「帰属」の契機というのは、無限に後退していくものじゃないですか。例えば僕の本にしても、それを書いた僕を「作った」のは両親であるわけだし(笑)、DJは無数の音楽をリミックスの過程に投げ込んでいくわけで。コード進行、一つのコード、いくらだって「その作品を形作った根源的な動因」の契機は遡っていくことが可能なわけです。でもCメジャー7thのコードを作った人を崇めたりしないでしょう。
  何が「創作」されたもので、何が借りてこられたものかという分割線は、それこそ批評的諸操作によって不断に事後的に引かれていくわけです。だから「オリジナル」と「コピー」を分ける線は、つねに恣意的なものにならざるを得ない。
  たとえば、ヨーロッパではかつて変奏曲がいっぱい作られていたわけなんですけど、19世紀初頭のフランスでは、ロッシーニの作品からメロディを借用した行為を、著作権侵害ではないとした判決が出たことがあります。つまり、メロディの独自性が音楽のオリジナリティを担保する印として機能しなかった時代もあった。

――いまのパクり探しは、ほとんどメロディの類似を指摘していますよね。

愛と学問の旅立ち
増田 オレンジレンジがどうのこうのっていわれますけど、例えばレッド・ツェッペリンなんてそれと比べものにならないくらいパクリまくりだったわけですよ(笑)。シカゴ・ブルースやフォークソングのそのまんまパクリのオンパレードだったわけですし、当時ツェッペリンの「パクリ」を非難する批評もしばしばあった。ところが、いったん「ツェッペリンはオリジナルな存在である」という観点が成立したとたん、今度はツェッペリンの音楽とシカゴ・ブルースを切り離す批評的諸操作が行われて、両者の音楽的な差異がクローズアップされ、ロバート・プラントとかジミー・ペイジなんかの「創造性」へと帰属させられることになる。オリジナリティと作者性は、そういったメカニズムでつながっているような気がしますね。フーコーが「帰属」という言葉で言っていることは、音楽に置き換えるならそういうことになるわけです。
(次週へ続く)

※音楽の歌詞を語る「主体」についての構造をより深く考えるためには、中河伸俊「転身歌唱の近代――流行歌のクロス=ジェンダード・パフォーマンスを考える」(北川純子編『鳴り響く性――日本のポピュラー音楽とジェンダー』、勁草書房、1999)、および増田聡「誰が誰に語るのか――Jポップの言語=音楽行為論・試論」(『ユリイカ』2003年6月号)を参照。
(斎藤てつや/サイトー商会)

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