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愛と学問の旅立ち
words by サイトー商会 バックナンバー
若手の学者がおもしろい。東浩紀、北田暁大だけじゃない、経済でも哲学でも思想でも政治でも、元気な論客たちが爪を研いで出番を待っている! そんな彼らに突撃インタビューしていく連載です。鈴木謙介の3週目、宮台真司転向の瞬間がいま明らかに……。

第7回 師匠、宮台真司はなぜ「転向」したのか?
――鈴木謙介インタビュー其の三

鈴木謙介(すずき・けんすけ)
1976年福岡県生まれ。東京都立大学大学院社会科学研究科研究博士課程単位取得退学。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター研究員・助手。専攻は理論社会学。社会学の道具立てを用いたネット社会の分析には定評があり、若き論客として注目を浴びている。著書に『暴走するインターネット』(イーストプレス)、『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)など。ついでながら宮台真司の弟子としても有名。
公式サイト:SOUL for SALE

『カーニヴァル化する社会』鈴木謙介/講談社現代新書
――今回の本だけでなく、鈴木さんの書かれたものや発言を読むと、処方箋を提出することに、とても慎重な態度をとっているように感じました。つまり、「べき論」よりもまず「いかにしてあるのか」を問う必要があると。

鈴木 若者の労働問題一つをとっても、安易な解決策が次々と出ていますよね。「働かないで親にたかるニートなんて、許せん。そんなやつらは自衛隊に叩き込んでしまえ」とか、「若いやつらのヤル気がないのは健康状態が悪いからだ。体育や部活動をもっと活性化させろ」とか。

――国も「若者自立塾」とか作ってますからね。

鈴木 言ってみれば、戸塚ヨットスクール化ですよね。そうした実効性についての議論を欠いた解決策が、右とか左とか関係なく出てきてしまう。

――それはなぜなんでしょう。

鈴木 社会の中で、何が中心的に論じられるべき問題か、何を私たちは――たとえ反対するにせよ――中心的な価値だと見なすか、といった論点がぼやけてしまっている、ということは非常に大きいでしょう。社会学においては、マルクス主義か、機能主義か、どちらかの立場にコミットすることで、社会を語りうる足場を獲得できるという時代が長らく続いてきました。また社会一般でも、マスメディアの果たしていた役割は、それなりに大きいものがあったわけです。
  しかし、冷戦も終わり、そうした社会への語りの中心軸みたいなものが弱くなると、やっぱり中心的な価値が必要だ、それを復活させるべきだというようなタイプの議論が出てくるわけです。
  たとえば、歴史教科書問題について考えると、分かりやすいかなと思うんです。歴史教科書の問題は、はじめ右派の側から、左派の言ういわゆる「自虐史観」が、非常に恣意的な前提に依拠しているということを告発するという形で登場しました。しかしそこで言われるような「自由」や「人権」が恣意的な理念だというなら、右派が依拠する「(国民)国家」だって、同じ時期に恣意的に立ち上げられた理念であるわけです。
  そうした終わりの見えない梯子の外しあい、泥仕合の果てに結局明らかになったのは、社会を支えている近代の価値というものは全て恣意的に過ぎないということでした。また世界的には9.11テロのようなものが出てきて、こうした恣意的な前提は、暴力によって案外簡単に覆されてしまうということが見えてきた。そこでどうなるかというと、たとえ恣意的であっても、もう一度、中心的な価値を「あえて」選び直すのだ、という決断を呼び出すということだったのでははないか、と思います。
  それが特に顕著に感じられるのは、かつてポストモダン的な思想にコミットしていた人たちでしょう。主体の解体とか社会の脱中心化みたいなことを散々言ってた人たちが、事実、彼らの言っていたような事態が現前しはじめたときに、これはマズイといって、決断主義を取り始めた。

――決断主義はよろしくないことなんですか?

鈴木 中心的な価値を選び直すこと自体はいいも悪いもありません。けれども問題なのは、そうした決断の内容です。というのも、私たちの社会は、国家の強さを信じられるような崇高さや、輝かしい理念を欠いているがゆえに、価値は恣意的にでも選ばなければならない、という風になっている。そういうときに生じるのは、我こそが崇高さを支える、と自称する右派へのコミットではなく、単に現在権力を持っている人々が、社会的な決断の主体になるということなんです。「あえて選ぶ」と言ってるわけですから、選んだ内容がもっとも制度設計なんかに反映されやすい場所にいる人間の決断が、最終的には通ってしまう。これは学問的な真理性や思考の深さとは無関係な、単なる政治ゲームであるわけです。
  ポストモダン的なことを言っていた人々が、40代になってなぜ決断と言い出せるかというと、そういう既得権にコミットできるからとか、マスコミに対して近いから、というのが大きいと思うんです。しかしながら言ってみればそれは、学問によって、デファクトスタンダードや既得権益の提灯持ちをするということでしかないんです。

――その典型が鈴木さんの師匠でもある宮台真司さんですか?


鈴木 そうですね。社会学は、政策形成に参加できることを重要だと見なす科学なので、結果的にそうした権力にすり寄りつつ、自分の主張を通していくというやり方は、その意味では正しい。でも僕はやはりそれは、知識人のするべき仕事ではないし、宮台さん自身も、当初はそういう仕事はしていなかったと思うんです。

――宮台さん自身は、そういう「転向」を認めているんですか?

鈴木 はっきりと「転向」というふうに言ったことはないかもしれないですね。亜細亜主義とか天皇とか言い出してからも、多少の変節を経てますし。ただ、90年代によく言っていた、社会に過剰な規範や倫理を持ち込むことは害悪である、という立場から、社会の価値は「あえて」選ばなければいけないんだと大きく転換したことは事実ですよね。
  ちなみに僕は、その「転向」の瞬間に立ち会っています。ある年のゼミ合宿に参加したときでした。渋谷のブックファーストで、岡倉天心や北一輝の文献を大量に購入してきた宮台さんが、突如として「天皇」の重要性を語り始めた。ゼミ生は唖然としつつも引きつった笑い顔、という感じでしたが、思えばあれが始まりだった(笑)。

――歴史的瞬間に立ち会ったんですね(笑)。では、今後は師匠と戦う?

鈴木 戦う、というと違うかもしれませんね。先ほども言ったように、決断自体にいい悪いはない。ただし、そこでの決断の内容や実効性が問われていない気がするんですよね。めいめいが勝手な決断の内容を唱えている。若いやつを戸塚ヨットスクールに叩き込めとか、やっぱり非核三原則や憲法は大事ですとか。そうやって、それぞれが勝手に決断を主張している状況では、つまるところ既得権益を持っているかどうか、とか、評判になったほうが影響力を持つ、といった「情報戦」で雌雄が決せられてしまう。こうした政治ゲームにコミットするべきかどうかという問題があります。特に最近は、この本でも書いていますが、学問的には多少、あるいは大変歪められた情報であっても、政治的影響力を持ちさえすればいいのだ、といういい加減な知見がたくさん援用されるようになっている。「ゲーム脳」なんかがそうですね。僕はやはりそういう政治的コミットメントはしない方がいいんじゃないかと思うんです。

――でも、学問的なコミュニケーションにも影響力合戦みたいなものは、つきまとってしまうでしょう。

鈴木 そうですね。ある時期まで学問がもっていた根拠というものがいま、とくに文系の学問についてはかなり薄くなっている。実のあることをやれということが大学改革の中でも言われているし、社会的な圧力としても大変強い。
  そういうときに、ある種、学問的な知見や学問的な道具立てを使って、何かをしていこうとすれば、結局その影響力の多寡によってすべてを計るしかない、という結論にどうしてもなってしまう。その影響力の多寡とは、政治と同じように、マスコミへのアクセシビリティであるとか政府政策委員会へのアクセシビリティなんですね。となると、若い間は特にやることはなくなってしまう。
  そうかと思えば一方で、ブログ論壇などインターネット上で有名人になっちゃうという回路や、学会の中だけで偉くなっちゃうような回路もあって、さまざまなエリアの情報戦を勝ち抜いて、そのローカルな範囲内で影響力を持つみたいな、内容と関係のない勝負が始まってしまうわけですね。これはもう文系の学問的コミュニケーションには必然的についてまわってくる。そういう学問的なコミュニケーションに付きまとっている政治化であるとか情報戦化、影響力勝負みたいなことをどこまで自覚してやるかというのは、すごく難しいし、たとえ自覚したとしても、影響力を得られるようなことを言いさえすればいい、ということにもなってしまう。
  影響力勝負になると、見た目がいいとか若いとかといった類のマスメディアの論理が一番大きくなります。内容はよくわかんないけど、若いやつが威勢良く言っているから正しいに違いないとか、そういうメタ・メッセージが利用されていくことにどうしてもなるんですよね。

――それは鈴木さんにとってはチャンスじゃないですか(笑)。
(次週へ続く)
(斎藤てつや/サイトー商会)

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